禅宗 洞雲寺(閑夢庵)

京都市西京区樫原内垣外町19-1

蔭涼山 洞雲寺 由来

当山は、臨済宗妙心寺派の禅宗だったが、現在は単立の禅宗の寺院として布教活動を行っている。開山は一絲文守和尚(いっしぶんしゅ)で、 寛永8年(1631)に建立された草庵「閑夢庵」(かんむあん)が始まり。
 一絲和尚は慶長13年(1608)、公爵岩倉家の祖、具堯(ともたか)の第三子として誕生。寛永の初め、澤庵和尚に師事して得法し、「紫衣事件」= 寛永4年(1627)=で澤庵和尚が出羽国に流罪になると、一絲和尚も従って行った。その後、一絲和尚は幕府に近付く澤庵とたもとを分かち、ひとり枯禅を 求め、俗世を離れて洛西、岡本(現在の樫原)の地に庵を結んだ。それが今日の洞雲寺(閑夢庵)である。

当時、後水尾天皇は一絲和尚に深く帰依され、一絲和尚と第一皇女、梅宮と淡い交遊があったとも伝えられている。その後、梅宮は一絲和尚に就いて 尼となり、法名を「文智」(ぶんち)と称した。後に文智禅尼は、奈良に「円照皇寺」を開いた。
 三年後、一絲和尚は「閑夢庵」を去って亀岡の西、千ヶ畑に「桐江庵」(とうこうあん)(現在の法常皇寺)を結び閑居。寛永20年(1643)には、近江の名刹 「永源寺」の住職となり、荒廃した寺の再建に尽力されたが、三年後の正保三年(1646)3月19日、39歳という薄命で世を去った。
 

入寂後の延宝6年(1678)、朝廷から「定慧明光佛頂国師」(じょうえみょうこうぶっちょうこくし)の称号を授けられた。今も永源寺には、一絲和尚 にゆかりのある墨蹟、文化財が数多く現存している。
 一絲和尚の入寂後、閑夢庵は二百有余年に渡って荒廃するにまかせていたが、これを憂いた大観文珠禅師が天保2年(1831)に中興された。
 当山の境内には、弘法大師作と伝えられる不動明王の石像をはじめ昭和58年に総代の久井弘氏が建立された慈母観音菩薩像などがある。また、山門の下にある 弁天池には、保護動物の「モリアオガエル」が生息している。
 現在の本堂・庫裏は、先住の洞雲十世勝允(しょういん)和尚が昭和44年に再建されたもので、本堂には本尊の(釈迦牟尼仏(しゃかむにれぶつ) を祀っている。また、本堂前の「すい琴の庭」や開山堂裏の「美のおの庭」には、四季折々の美しい草花が咲き、特に春の桜花と秋の紅葉(美のおの庭)は 素晴らしく、訪れる人が絶えない。

inserted by FC2 system